昭和42年7月24日 朝の御理解
御理解に氏子が真から用えるのは、神も比礼じゃが寄進勧化をしては神は喜ばんと、その氏子が真から用えるのは神も比礼じゃがと、こう仰るところですね。それはどういうことかというと、神様のお喜び頂けれるお役に立つと御用、用える 御用と 用と書いてある。ね、氏子が真から用えるのは、神も比礼、神様の喜び生き生きとした神の威と申します。
神様のお喜びがそこに現われる、そこでこれは例えて云うなら、そのお供えとかそういうことについて御理解だと思うですけども、ですからお供えをせにゃ、お供えをせにゃと云うてしたんでは神は喜ばん、氏子が真から用える 用えると、氏子が真から心から真心を持ってお供えするのは、これは神の比礼じゃと、この神の比礼じゃと仰るから、これはだから百円よりも千円、千円よりも壱万円の方が良いことになるわけなんです。これはそういう意味のことだけれども、それが思うんですけれどもね、その真から用える、神の比礼神の威、神の勢いがそこに現われるということはですね、私共が この方の信心は火や水の行ではない、家業の行と仰る。その家業の中にですね、ほんとに用いてもらうということだと思う。ね、そこにです、神も比礼じゃがと その神の比礼がそこに立つのです。ね、お百姓をされる、お商売をされる、様々の家庭の御用をなさる、そこにですね、ほんとに用えてもらうということ、ああ今日も暑かとに畑に出らにゃならん、又今日もこの暑いのに勤めなければならんと、こう そういう心では所謂真じゃない、ね、それこそお役に立ちたい、立ちたいと、こう念願それは必ずしも神様が喜んで下さる事か、必ずしも教会の御用に限った事ではない、お供えに限った事ではない、ね、お役に立ちたい、立ちたいというのはです、自分の御用に本気でお役に立つ事なんです、それも私の商売、私の仕事というあり方の中には、どうしても不純なものが生まれてくる。ね、儲かりゃ嬉し、儲からなかったら、あゝ今日は駄目じゃったとこう云う、神の用に用いてもろうて、それが損であろうが徳であろうが、神の用に用いてもらって、例えばお野菜が良う出来ようが出来まいが、それこそ神様の世界なんだね、そういう私は用いられ方というものがあると、ね、さあ今日も神様の御用に本気でお使い廻し頂くぞと、そこんところがお役に立ちたい、立ちたいと云うその念願がですね、こちらへ向かって来て廻れ右をする、自分の家庭に帰る 自分の家庭においてですね、神様の御用に用えてもらうということ、例えて云うならば私共でもそう、私共直接神様の御用に使うてもろうておるわけ、さあ今日も暑いとに只今から一時間座らんにゃならん、というのではなくてです、朝の御祈念が終わった、さあこれからだという意気込み 神様どうぞ存分にお使い廻し頂きますように、その神様の御用に存分にお使い廻しを頂くということ、そういう私は真から用いるそういう心にです、神の比礼がです、存分にお使い廻しが頂けれる場というものがここのお広前に出けるように皆さんの、例えば持ち場持ち場においても理屈同じ事、そこにです神の比礼を頂かなければ そこにね、お商売の場に、又は百姓なさるなら百姓のその場にです、そこにですね、もうほんとに不可思議極まる働きがそこから始まってくる。
夕べ久富さんが云うておられましたが、もうほんとに暑い中に、まあだ山芋掘りをなさっておられるらしい。もう影ひとつない、それにですね、一息入れるたんびにですね、もう どっからか冷たい風が吹いてくる。この冷房装置のこの部屋に入ってからですもん、先生不思議なことが今日あった 一息入れるたんびに、ほんとに冷たいような風が、あの身体のどこへんか自分が悪いとじゃなかろうかと思うくらいに、冷たいような風がおこってくる。はーそれがもうその暑い中にですね、けれども一息つくとが楽しみなんです。そういうようなですね、働きがですね、商売なら商売にですね、素晴らしいタイミングといったようなものがあるんです。
成程神様の御用にたてば、神様の御用に用いてもらえればです、そこに神の比礼がある、神の比礼がそこにある。そこから立つのだ、ね、はあ これひとつ売りゃいくら儲かるということではなくてです、儲かる儲からんは別として ね、出来るだけ実意丁寧をもって、例えば商売人であるならば、お客さんが喜んで頂くように御用にお使い廻し頂く、用いてもらうということ。そこに私は思いもかけない商いも、出来てくるというようなおかげになってくることを 私は確信するですね。この炎天にどこからそのような冷たい風が吹いて来るか分からない、それこそ それこそ暑いような風の中を縫うてです、冷たい風を神様が送って下さるという働き、不思議なことじゃある、不思議なことじゃある、それが有難いことじゃある、有難いことじゃあるのがです、おかげをもって疲れもせず、一日御用に使うてもらい、神の比礼もここに頂いて有難いという御用が出けるのです。皆さんがお供えなさる時にですね、又ほんとに さあ皆さんがお役に、特にこの御造営にあたってはですもう皆さんが各々に思うておる、もうほんと、せめてこのくらいのことにおかげ頂きたい、もう自分に手の届かないことを思うてでも思うてこのくらいなことはお父さんひとつおかげ頂かなんと、例えば夫婦の者が話し合って、お役に立ちたい 立ちたいという念願がです、もう思いもかけないところから、思いもかけない方法を持って神様おかげ下さったという事実があるじゃないか。
これは御理解に見るところの寄進勧化ということと仰っておられますから、これはお供えのことだとこう思うですね、それはですね、これは私お道の信心じゃない、これは成長の家の方から聞いた話なんですけどもですね、もうあの北支の寒いところでですね、兵隊さんの時です、熱心なその成長の家の師匠である、もう他のもんのお弁当はカチカチに凍っとった、ところが自分のつは炊きたてんごと、ぽっぽっはしよらんばってんですね、炊きたてのような御飯と自分のつだけは、不思議なことがあればあるもんだというけれども、そういう働きも出来なさるのが天地の働きなんだ。成程この暑い中にです、この暑い空気の中を縫うようにしてから、その氏子のところに冷たい風を送んなさるということが分かるです。
何故ってそうでしょうが、例えば東京なら東京でお芝居があってるのを、目の前でテレビをもってするなら見えるでしょうが、ね、そこにそれがあるからなんだ、冷たい風がどこにかある、シベリアならシベリアから持ってきなさる神様がちょっと ね、もうそのそんなことがと云うけれども、そこに神の比礼というのは神の威と仰るから、神の権威にかけても印を見せて下さる、御比礼というのは神の威だと だから御比礼が頂けれるような私はお仕事をしたい。
御比礼が頂ける、ここに頂けるようなお商売がしたい ね、そこに私は普通では考えられないような、その比礼がそこにある、現われてくる。
昨日熊本教会の総代、それから信徒、信徒会長、婦人会長、ひとりはまあ青年会長さんかなんか この頃あの大会に行った時にインタビュ―に見えましたその女の方、なかなか弁もきいておられる、筆もたつといったような方四人連れで見えられた。そしたらひろ子先生のお母さんがよってあら青年会の方知っておるんです熊本同志で、そうしよるところに丁度「 」の太田先生から電話がかかってきた。ね、一同に集めなさる。
昨日その前の日には期せずしてですね、昼頃菊栄会の連中が 私どこでも菊栄会の連中に一言云いたい事があったんです。期せずして集まってくるんですからね、正義さんが来る、高橋さんが来る、杉山さんが来る、みんな話し合って来る 茂さんが来る、とそこへ原さんが引き寄せられた、ちいうようなことでしたけれども、これが神の威なんだ。いわゆる冷たい風をここへ集めなさる、それと同じ事、今日は熊本のもんが来とるから、なら私がお話しとることがです、ひろ子先生のお母さんが、そうですよ、そうですよと横で云うてくれるだけで分かる、よもや とてもここのお広前があそこで何人かの人にインタビュ―した時にです、聞いたあれがもし、じつづきであるとするなら大変なことだけれども、ち―ったオ―バ―じゃろち思うて来たらしいんです、だから初めから見に来たとこういう。だからようと見て帰りなさいと私が云うたことでこざいましたけれどもね、見たことと聞いたことと一致する、しかもそこには、ひとつの証人まで横においてある、今電話がかかってきたのもたらきのあれですよ、というてたらぎの太田先生のおかげを受けたことを、ずうっとこうお話してみる、はあたらぎの太田先生、そうですかといったようなことを知ってある。信徒会の方だったら ね、これなんかは神の威ですから、それがこのお広前だけでということじゃないということ。お互いの家庭においても、職場においても、働きの場においてです、そういう比礼を表すことが出来る、そういうおかげを頂く為には、お役に立ちたい 立ちたいとという一心の願いというものがなからにゃいけん。堤さんなら堤さんが見えとるがね、堤商店なら堤商店の只発展繁盛だけを祈るのじゃなくてです、もう堤商店というのは只仮の名であって、実を云うたら神様のお店なんです。ね、そのお店をあつかって、今日もお粗末御無礼のないように、自分の小さい人間心でもはさんで、自分の小さい我情我欲でもここにはさんで、そんなら丁度神様とお客さんの間からピンはね取るようなもんじゃ、そういう例えばんなら玉水の先生の生き方でいうなら、そういう使用人をです、大事にして下さる筈が無いです。こりゃいかん、こりゃちっと間違いよるというようなことになりはせんじゃろか、自分のお粗末な感情 ね、自分の汚い人間心がお商売の上に現われただけでも、それはいけん、そこにです、絶対そういうことが無いかと云うと、無いのじゃないのですから、矢張りしら真剣な詫びがいることになってくるわけなんですけどね。けどもそこに、ほんとに神様の特別の威というものを現す、冷たいものが暖かくなる、暑いものが冷や冷やなるようなです、そういう働きが特別のそういう神様の権威の中にですね、現われてくるようなおかげを頂く為に、私共がいかに信心にならなければならないかと、しかも真から用えるのは、もう心の底から神様の御用に立たせてもらおうと、お役に立ちたい、お役に立ちたいという念願が、その自分の職場に現われてくるようなおかげを頂く。
昨日 一番不思議なのはですね、熊本の方達のどうしてその、たった僅かばかりの間に、人がこれだけ沢山集まられるようになられたか、この頃秋永先生知っとるんですよ、誰か云うたんでしょう、秋永先生を尋ねてきたんですよ、それからその秋永先生が聞いてから実に感激したと云うて、そん時の話をよう覚えて云うておられました。もすこしそのことを詳しく知りたい ここでは勢をそろえた信心というか、家族の方がみんな信心をなさるということですが、そのコツあいというのは、どういうところにあるのでしょうか。
そりゃあした信心してからお互いが信心になるとね 物の見方考え方が変わってくるんだ ね、いわゆる用いられ方が変わってくる仕事の仕事ぶりが変わってくる、それを見たり聞いたりしよる、家内やら子供やらがです、矢張りついてこじゃ馬鹿らしゅうなってくる、そりゃもうお前も参ってくれ参ってくれと云うのじゃない、ついてこなければおられんというのが椛目の、椛目から合楽にかけての皆さんの家庭の中に、勢を揃えての信心が出けられるのは、そこ以外にないですよ、他に何もない、秘伝もコツもない してみると私共はいかに信心が出けないかということが分かります。
人が見てから信心せにゃ馬鹿らしいといったようなものが、自分の内容にないということを感じるということを云っておられましたけれどもね、そういうようなことがです、私共がです、ほんとに私一人でも神の用に使うて頂くということが有難い、用いてもらうということ。皆さん今日は皆さん、神様の御用に用いてもらう、しかもそれが真から一心をもって今日も家庭の御用にお使い廻しを下さい、お商売の御用に、お百姓の御用に そこから、暑い、けれどもその一服の時に、どこから湧いてくるか、吹いてくるか分からんような冷たい風が吹いてくるようなです、私はおかげを頂かしてもらえれる 不思議なこっちゃある。これは自分の身体のどうかあるのじゃなかろうか、思うくらいにある。それが続く、ほんとにこういう神様の御守護の中に御用に用いてもろうとるということが有難い、有難いで御用さして頂いてからです、ね、その日の疲れといったようなものも、有難いという心で、疲れというものがみんな こうどこかへ発散してしまうように心がシャンとしてくる。ね、そういう、私はおかげを頂かなければならない、どうぞ真から氏子が用えるのは神も比礼じゃ、神も比礼じゃ 寄進勧化をしては神は喜ばんぞと仰ることは、さあ、この仕事ばせにゃん、この仕事ばしてくれんのと云うてさした、それじゃ神は喜ばん、息子は仕事ばせんでも黙っておやじが一生懸命しよりゃ、後から子供がついてくるようなもんじゃなからにゃつまらん、それ寄進勧化しよるとと同じこつじゃもん、こればせんかあればせんか、と云うようなこっちゃつまらん、もう自ずとそうさしてもらわなきゃおられないことになってくる、私は御用でなからなければ、神の比礼をここに現すということは出来ないと思う。
どうぞ